*

従軍慰安婦問題

いわゆる「河野談話」は、戦後50周年を記念して当時の首相が発表した「村山談話」とともに、保守派の間で評判が悪い。「河野談話」とは、1993年に当時の河野官房長官が発表し、旧日本軍がいわゆる従軍慰安婦への関与を直接・間接的に行ったことを政府が認めたものである。 

 

1990年代は、戦後のなかで中国や韓国との関係が良好だった時期で、戦前から戦後にかけての過去について、政府として謝罪や反省を含んだ何らかのメッセージを求められていた。従軍慰安婦については、日本政府が直接これを管理した証拠がいまのところ出ておらず、根拠を欠いた政治談話であるという批判は、発表当時からあった。 

 

いわゆる「従軍慰安婦問題」は、日本が戦前・戦中期に植民地ではたらいた蛮行として、事実はともかく広く知られるようになっている。もちろんこれが事実であれば、歴史の教訓として我々は深く心に刻んでおくべきものだろう。 

ただ、事実かそうでないかという以前に、この問題は教育現場においても教えるべきものとされた。「戦争と性」というのは、切っても切り離せない関係ではあるのだけれど、これを教育の場でどこまで伝えるべきなのかは、もっと配慮すべきではなかったかとは思う。戦場におけるグロテスクな感情と行動は、日常的な我々の常識からは大きく逸脱するものであることは間違いない。その非日常的光景ばかりが注目されれば、軍が関与したのか否か、したのであればどの程度のことだったのかという議論が、感情によって押し流されてしまうからだ。 

 

「河野談話」が発表された経緯については、近年になって当時の人々の証言などから明らかになりつつある。また、「従軍慰安婦」の定義についても、議論が分かれている。文書などの証拠はなくても、本人の意思に反して慰安施設に送られた「事実」を重くみて、その救済を図ろうとするのが、歴代内閣が踏襲してきた姿勢である。こうした政治判断と、歴史的事実の究明は分けて考えるべきであり、政府の立場として「河野談話」を継承していくというのは、妥協かもしれないが理解できないことではない。 

 

なぜなら、「談話」を変更するためには、軍の強制性をはっきりと否定する証拠があるべきだが、あったことを示すことはできても、なかったことを示すのはいわゆる悪魔の証明に近い。はっきりした根拠もなく、これを否定するのは、政治的に大きなリスクを伴う。景気対策から安全保障、憲法改正など、重要案件を抱える政府にとって、政権の座を賭けてでも行う決断ではないということだろう。 

歴史と政治は密接に絡み合うものではある。ただし、歴史は過去のことだからといって必ずしも事実をありのまま映しているわけではない。また政治も、場合によっては決断するのに妥協や留保が求められるものだ。 

これらを直結して考えてしまうと、「従軍慰安婦」の強制性、その程度について完全な証明がなされない以上、救済も訂正も何も行うことができない。歴史は歴史として、政治は政治として、できることをまず行っていくという柔軟な姿勢や態度も、こうした問題には欠かせないように思う。

旦那のために痛風用の食事をどうしようか考えていたらこんな深い話を考えてしまった。



コメントする